家相・風水、気にする?気にしない?

こんばんは。さすけです\(^o^)/

 

私が家相とか風水とか言いだしたら怪しいと感じられる方もいらっしゃるかも知れません^^;

最初に言っておきます!私は家を建てる際に、家相も風水も全く考えませんでした。

ただ、私が考えなかったと言うだけのことで、家相や風水を気にされる方も多くいらっしゃることは理解していますし、それを否定するつもりは全くありません。

自分が家を建てる時には全く気にしなかったのですが、この家相や風水って、ある種の経験の蓄積によって培われた「科学」として扱われることある一方、はたまた、民間信仰的な一面もあって、それを信じる、信じない、はたまた、信じるべきか、信じないべきかという話は横に置いて、いったいどういうものなのか?を考えるのは楽しいかな?と思ったのです。

今回の記事の目的は、家相や風水とは一体何なのか?を考える一助になればと思って書かせていただくものであって、これを信じるべきだとか、そんなものは信じるべきではないというつもりは全くないことは最初にご理解いただければと思います。

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家相や風水に対する信仰的要素の肯定

これまで私のブログをお読みいただけていた方ですと、私が家相や風水について書くと何となく、否定的な内容のように思われるかと思いますので、その点を否定しておきたいと思います^^

私自身は家相や風水を信じていませんし、自分の家を設計する段階では全く気にしてきませんでした。

しかし、だからといって、これらを信じることを否定するつもりも、さらにはそれを信じることが間違っているなどとは全く思っていません。私自身はこの家相や風水を一種の信仰的なものの一つとして捉えています。

私自身はキリスト教などの特定の宗教に対して強い信仰心を持っている訳ではありません。しかし、これら宗教を信じる人たちの信仰に対しては敬意を払いたいと思っていますし、宗教というものをその宗教が持つ一つの側面を持って否定することは愚かなことだと捉えています。

宗教は人類が「文化」を形成した時点で必然的に発生してきたものであって、それが発生した地理的、歴世的背景と密接につながったものと思っています。宗教が戦争の引き金になってきたことは歴史的な事実と思います。しかし、それを持って宗教を否定することはできませんし、そもそも宗教や信仰を否定することは意味のある行為とは思えません。

「宗教」や「信仰」というと、多くの方にとってなんだか遠い世界の話のように思われるかもしれません。

しかし、このブログを読んでくださっている方の大半も信仰を持っていると思います^^

いやいや、自分は特定の宗教を信仰していないよ、という方は次の例を是非考えてみてください。

私が由緒正しい神社で購入した1つ500円のお守りを皆さんに差し上げたとします。

私がそのお守りを皆さんに渡した後、購入時の2倍の価格(1000円)払うからその場でお守りをハサミで切り刻んで欲しいと言ったらどうでしょうか?

そのお守りは私という他人からその場でもらったものですから、何の思い入れもないはずです。であるならば、現代人の多くが信じる「経済合理性」に基づけば、ハサミで切り刻むのが合理的な選択です。

しかし、多くの人は私が支払う金額が2倍だろうと3倍だろうと、「お守りをハサミで切る」という行為を拒否するのではないでしょうか?少なくとも私は切り刻めません。

その感覚こそが、「信仰」そのものと思います。

それは「お守り」という存在がただ単に布でできた袋ではなく、そこに「神」という存在を意識した信仰的要素が絡んでいるからだと思います。

これは私達が子どもの頃から毎年神社に初詣に行くなどしてきた経験から自然と伝承されてきた文化的、歴史的信仰の一つだと思います。

このとき「お守りをハサミで切り刻んで1000円もらわないなんてなんて馬鹿げているんだ!」なんて思う方はいらっしゃらないと思います^^

家相や風水というものも、特定の宗教と密接につながってはいなくても、私達が生活の中で自然と吸収してきた様々な経験から獲得した信仰の一つの形だと思うのです。

家相が気になる人は7割

私自身は家相や風水を気にしなかったと書きましたが、私のように家相や風水を全く気にしない人というのが少数派で、家相や風水を気にする人の方が一般的なようです。

少し古い情報ですが、朝日新聞の記事によると2006年に150人ほどの人に行ったアンケート調査では、家相が気になる、なんとなく気になると回答した人の割合は約7割だったそうです。

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このことからも、家相や風水と言ったものを強く信じてはいないけれども、ある種の民間信仰的に気になる人は多いのではないかと思います。

家相と風水

最初に、風水と家相はなんとなく同じようなものに感じる方も多いかと思いますが、それぞれの違いは何かを少し調べてみたいと思います。

調べる範囲としてはWikipediaや一般的に閲覧できる書籍がベースですから間違いも多くあるかと思います。また、そもそも家相や風水を気にする方にとっては常識的なことであるかも知れません。。。

風水とは何か?

風水の起こりは、中国晋代の郭璞(かくはく)(西暦276-324)が記したとされる「葬書」に記された思想を基本としているとされています。郭璞は「天文・五行・卜筮(ぼくぜい:亀甲占いのこと)諸術に通達した」人物とされています【東洋大学 山田利明 『葬書』の思想と環境論より】。五行とは中国古代思想の一つで、五行思想のことで、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという、自然哲学的思想です。五行思想によれば下図のようにそれぞれの関係が示されており。「相生」と呼ばれる関係では順番に相手を生みだし、水は木を生み、木は火を生み出すという「陽」の関係を持っているとされています。これとは逆に「相剋」という関係もあり、これは水は火を打ち消し、火は金を打ち消すという相手を滅ぼす「陰」の関係を持っているとされています。

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郭璞はこの五行思想に精通し、また、卜筮などいわゆる占法(うらない)にも精通した人物として、当時の晋における有識者であったとされています。

この郭璞が記した「葬書」はその名前の通り「墓地の選定」について記された書物になっており、葬書では、山や丘を墓地の立地に良い土地として、そこに「気」という概念を取り込み、墓地の選定を行う方法を示した書物でした。葬書には、「風水之法、得水為上、藏風次之 (風水の法は、水を得ることを最上とし、風を蓄えることはこれに次ぐ)【山田利明訳】」と記されており、風水の基本をなしています。そもそもこの葬書に記された風水の意義は、死者を良地に葬ることで、生者が幸運を得ようとする思想に基づいた書物となっています。

当時の中国に既にあった「陰陽思想」とこの「五行思想」が結びつくことによって、「陰陽五行思想」となり、陰陽思想で重視されていた方位と五行思想で重視されていた先の5元素が結びつきそれぞれの元素に方位が与えられ、現代の風水思想を形成していったとされています。

その後、この葬書に記された風水の概念は墓地の選定だけではなく、「都市」や「村」という生者の生活する空間全体に拡張して思想的な体系化を果たしてきました。

そして、これが非常に面白いと感じたのですが、この風水思想は当時の中国の歴史的な背景に対して合理的な都市選定を行うのに都合が良かったという点です。風水思想に基づけば、山や丘を墓地選定の良地としており、生者はそこに住んではいけないとされていました。結果的に生者が住むのは「盆地」のようにくぼんだ土地が選ばれ、そこに村が形成されることになります。当時の中国は常に外的の脅威にさらされており、盆地は外的から村を守る観点からは合理的であったといえます。

結果として、「葬書」に基づいた村はそれに基づかない村に比べて生き残る確率が高くなり、結果として「葬書」に記された思想に基づいて村を作ることが政治的にも求められるようになっていたと考えられます。

これが地政学などと結びついて、さらなる発展を遂げた結果が、中国における「風水」となったと考えられています。

家相とは何か?

上記で調べてきた「風水」には「家相」という概念は存在していませんでした。

家相は奈良時代に遣唐使を通じて中国から伝来した風水思想における「陽宅(生者の住まい)」と「陰宅(死者の住まい)」という思想に基づき、それぞれに「陽宅風水」、「陰宅風水」が存在していました。このうち生者の住まい、すなわち「家」である「陽宅風水」に仏教、神道、さらには皇室を中心とした宮廷文化が独自に融合してたものが「家相」と呼ばれるものになります。

風水が日本に伝来した後、平安時代の「陰陽ブーム?」を背景として、「地相」を主とした中国風水から、「家相」へと変化を遂げてきました。しかし平安時代の家相では室内設備に関する記述はなく、井戸やかまど、厠(トイレ)などの吉凶が記されていたのに留まっていたそうです【お茶の水女子大学 家相の民俗学 宮内 貴久 】。

鬼門、裏鬼門とは何か?

家相で大切な概念として、鬼門、裏鬼門という概念が存在しています。

家づくりで家相を気にしないという方でも鬼門や裏鬼門だけは気にするという方もいらっしゃるかと思います。

この鬼門や裏鬼門というのはどこから来た概念なのでしょうか?

鬼門とは北東方位のことで、裏鬼門とはその180度逆である南西方位のことを示します。

鬼門の歴史は古く、現在確認できる最古の学問的記述は司馬遷の史記にまでさかのぼります。当時の占星術と融合したものと考えられ、古代信仰で祭られることが多かった太陽や月が出てくる方位が表鬼門(鬼門)であり、太陽が月が沈む方位が裏鬼門となっています。史記が記された当時の中国の政治情勢を考慮に入れると、前漢時代、「中華」の中心であった中原、すなわち主都の長安(現在の西安)から見て、北東には匈奴が存在していました。匈奴、すなわち北方騎馬民族(現在のモンゴル民族)は当時の中華思想に仇なす強敵であり、まさに当時の中国にとって「鬼」そのものでした。ここに、占星術的な要素が加わって鬼門の対角に裏鬼門が設定されたと考えられます。

鬼門、裏鬼門という考え方は日本の文化や歴史にも大きな影響を与えており、例えば平安京遷都の際には、鬼門にある北東の位置に延暦寺が建てられ、裏鬼門に当たる南西の位置に石清水八幡宮が建てられたとされています。

こんな話を聞くと自分で確かめて見たくなるので確かめて見ると・・・・

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当時の測量技術などを考えるとなんとなくそのような方位に建っているように見えます。

その後の江戸時代も江戸幕府の安泰を狙って、鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を建てて鬼門避けにして来たそうです。

しかし、平安から江戸時代にかけての鬼門、裏鬼門とは、基本的には都市のような立地に関する概念であって、これが住宅という都市構造よりもずっと小さな構造物に適用されたのが家相で言う所の鬼門と裏鬼門のようです。

特に江戸時代中期~後期にかけては、家相、宅相に関する書物が多数残されているとされています【村田あが:『家相新編』にみる明治期の家相説】。

ここで、これまた非常に面白いのが本来の「鬼門」の概念はおそらくは匈奴侵入を防ぐ意味合いが強かったと思われるのですが、日本には当然北東方向に匈奴のような的は存在していませんでした。にもかかわらず、これが日本に根付いた背景にはその季節風が関係していると思われる点です。

日本の季節風は、冬は北東から、そして夏は南西から吹きます。これら季節風は「都市」のような大規模構造に対しては大きな影響を与えることはありませんが、住宅では非常に重要になってきます。冬の北東からの風が吹き付ける位置にトイレや風呂を作れば、心筋梗塞や脳卒中等の突然死につながるリスクが高まります。また、そもそも風が吹き付ける方向ににおいの出やすいトイレ、風呂、台所などを作ればそのにおいは隙間の多い住宅から侵入した風に煽られて家中に広がってしまい、快適な住まいとはなりません。

これはあくまで私の個人的な印象でしかありませんが、日本では都市構造としての「風水」はあまり流行らなかった一方で、住宅の家相や風水が生き残り続けたのには、ある種の偶然によって、その思想が日本の風土に合致したことがあるのかな?などと思います。

 

ちなみに人を呪い殺すのに行う「丑の刻参り」は午前2時頃のことですが、これは時刻を方位に示したときに北東の方向にあたり、時刻として鬼門となっています。思わずへ~と思ってしまいました^^;

 

風水や家相は科学か?

ここまで、風水や家相の歴史的背景とその成立過程をざっくりと見てきました。

本気で調べると分厚い本が1冊できてしまいそうなほど興味深い歴史があるようです。

歴史的な経緯を考えると、風水や家相というものは、宗教と言うよりも思想に近い存在だと言うことが分かってきました。

そこで、少し気になったのが、現在風水や家相占いをされている方の中に「家相」または「風水」というのは「科学的にもそれが確からしい」ということを持って、家相や風水を科学的な存在として、書かれている方が多くいらっしゃる点に気が付きました。

家相や風水は科学か?と問われれば、私の答えは「科学ではない」となります。

科学として最も重要なことは「再現性」です。すなわち同じことをしたら同じ結果が得られることを持って科学と呼びます。

家相や風水は「運気」または「運」、さらには「幸福」といった精神的な安定を最終的な目標としています。科学では全ての物事は定義される必要があり、家相や風水が科学であるためには、「運」を定義しなくてはなりません。しかし、「運」や「幸福」はある種の価値観であり、価値観を定義することは非常に困難です。

そして、仮にこの運や幸福を科学的に定義できたとしても、科学で必要な再現性を担保できません。すなわち、鬼門や裏鬼門に何々を作ったら不幸になる、ということを統計的な観点からそれが明らかに有意である事を立証できなければそれは科学ではありません。よって、風水や家相は科学とはなり得ないというのが結論になります。

とは言え、こんな杓子定規な考え方をしていても仕方ありませんのでもう少し柔軟に捉えてみます。

風水や家相が科学であるとする根拠として、鬼門、裏鬼門というのは日本の風土と融合的であり、例えば鬼門や裏鬼門に風呂やトイレのような水回りを作ることは良くない、というものがあります。日本の気候は、冬は北東から、夏は南西からの季節風が吹く風土にあります。風が吹く方位は科学的にも正しいものです。

そして、先にも述べましたが、日本の風土を考えると、旧来型の住宅、すなわち木造で隙間の多い住宅では、北東に位置する場所にトイレや風呂を作ったらそこに冬の北風が吹き込みトイレや風呂は家の中でも非常に冷える場所になります。そうなると結果として、寒いトイレや風呂で肌を露出すれば心筋梗塞や脳梗塞等のリスクは高まります。これもまた科学的事実です。逆に夏の風が吹く南西の位置または南側に風呂やトイレを作れば梅雨などにカビの問題が生じます。さらに、南面ではカビや汚物のにおいの原因となります。さらには、南西からの風が吹きその風が室内に入ってきたとしたら、トイレや風呂のカビなどのにおいは家中に広がることになります。よって、南西や北東に水回りを作るべきではないというのは科学的にも合理的な選択であると思います。

しかし、ここで間違えてはいけないのは、「風水や家相の結論が科学的結論と整合的であるからと言ってそれが科学であるとは言えない」と言う点です。

このことは古来の風水などの結果にも言える事で、結果が現代の科学によって導かれる結論と整合的であったとしても、それは結果論であって、科学的推論に基づいて風水が形成された訳ではないという点に注意が必要です。例えば、先の葬書で記されていた「盆地に村を作る」という思想が先にあり、結果的に外的からの脅威を防ぐのに役立ったのであって、「外的からの脅威を防ぐために盆地を選定し」そこに風水思想という思想を後付けしたわけではない点です。

この辺は非常に面白いところで、かつ私個人の想像でしかないのですが、風水や家相というものはおそらく多数の思想の中から、ある種の淘汰の結果生き残った思想なのだろうと思います。そして、その淘汰は科学的な推論と整合的な一面を獲得したのではないか?と思います。

すなわち、家相や風水は科学に基づいたものではないけれど、結果として一面的には科学と整合的な結果を得るに至ったというのが私の考えです。

これも詳しくは述べませんが、風水や家相を「統計学」などと説明している方もいらっしゃいましたが、同じような理由で統計学のような精緻化された学問とは到底いえないものになっています。風水や家相はあくまで思想であり、信仰であって、科学や統計学のような数学的な基礎は持ってはいません。私は思想や信仰に対しては高い敬意を払いますが、あたかも、風水や家相をなどの思想や信仰を「科学」や数学を基礎とした「統計学」といったものであるかのように見せかけ、それを持って風水や家相を権威づける行為は、これだけ長い歴史と思索を経て形作られてきた興味深い思想を貶める行為と思います。風水や家相は文化的に非常に素晴らしいと思います。それ故に、そのような権威付けの行為によって「似非科学」とはなって欲しくないと思うようになりました。

それでもなお、科学であり統計学だという主張が残ることは承知しています。その場合は建築学会誌などで論文として査読を通してから教えて欲しいと思っています。

風水や家相をどこまで気にするべきか?

え~っと、ここからは色々調べてみて得た個人的な考えです。ですから、考えが違う人が居るのは当然ですのでその点はご容赦ください。

風水や家相というものの根底は「幸せになりたい」という人間の持つ根源的な欲求があって、それを一つの「ルール」として体系化したものが風水であり家相ではないかと思うのです。

信仰には「信じる者は救われる」という側面があると思っています。信じる者は救われるというと悪い意味に取られそうですが、それを信じることで仮に苦難にあった時でも「自分は大丈夫」と思う力を得ることができます。

すなわち、人間を凌駕する大きな存在、それは神であったり、はたまた自然であったり、そういった人間を超えた「力」を仮定し、そういった大きな力を自己のものとするためのある種の守るべき「ルール」を体系化することによって、そのルールを守ることが自分たちの幸せを保証してくれると信じる行為、それが風水であり家相であるように思うのです。

このような行為は「カーゴカルト」として揶揄されることもありますが、人間というのは「大いなる存在」を信じることによって「自分たちは守られている」という感覚を持つことができ、それによって問題を解決できるというのも、事実です。

しかし、それが科学的な事実、または直面した問題と相容れないときにどうするかの問題解決の阻害要因となってしまうことがあるのもまた事実です。例えば、家相や風水が気になるが、立地条件等々から水回りを鬼門方位にしか作れなかった、というケースでは人は「大いなる存在」に逆らったと感じ、問題が起こった場合にその選択を行った自分を責めてしまうことがあります。

これはある意味、様々な思想を思いっきり無視した私なりの解釈ですが、風水や家相というものの根底思想は「幸福になりたい」という欲求の体系化と思います。そして、その欲求は日本の気候風土と重なり合うようにして季節風が吹く方位に水回りを避けるなどの淘汰を経てきたと捉えることができます。

しかし、現代の住宅事情は100年前の住宅事情とは大きく異なっています。例えば一条工務店が建てる高気密高断熱住宅では季節風が吹こうが台風で大風が吹こうが、すきま風が入ってくることはありません。そのため、風水や家相が経験則的に禁じてきた「鬼門への水回り」を配置したとしても、科学的な観点から問題が生じることはありません。

そして、風水や家相の根底思想が「人々に幸せに暮らして欲しい」という願いであったのならば、そのルールを破ったら「不幸になる」というのはある意味、商業主義的思想のねじ曲げのような気がしているのです。私自身は、「~をしたら不幸になるという言葉こそが、カーゴカルトであり、商業主義に基づく思想のねじ曲げであるように感じるのです。

もちろん、結果として風水や家相に従う家が完成し、それが自分たちの幸せにつながるのならば全く問題ないと思いますし、むしろハッピーと思います。しかし、風水や家相にとらわれた結果、せっかく幸せだったはずのものが、不幸のように感じるようになってしまっては、なんだかそれこそ不幸な気がするのです。。。

なんだかぐだぐだになってきてしまいましたが、私個人はそれが風水や家相に結果的に合致したならば信じる、そうでなければそれを信じないというのではなく、その根底にある思想的源流までさかのぼって納得できたら良いのではないかな~などと思っています^^

最初の方で「お守りをはさみで切る」という話をしたとき、私はそれを切ることができないという話をしました。しかし、なんの躊躇もなく切り刻める条件があります。それは、お守りをはさみで切り刻まなければ、家族や私自身が不幸になってしまう局面です^^;家族を人質に取られてお守りを切り刻めと脅されているとか?^^;

そんな状況であれば、何の躊躇もなくお守りを切り刻めます。それは、私が守りたいものが「お守り」ではなく家族だからだと思うのです。

風水や家相も同じではないでしょうか?

風水や家相を気にする余りご自身や家族がそれによって気に病み、結果として幸せになれなくなってしまうのならば、それは風水や家相の本来の思想と乖離してしまうのではないかと思うのです。

 

最後に、風水と家相的に最悪な我が家の間取りをご覧いただいて終わりにしたいと思います\(^o^)/

WS000825とりあえず、私も私の家族も幸せです^^

実は、設計士さんが我が家の間取りを決めている際にやたらと「家相は気になりませんか?風水とかは気にしませんか?」というのを聞いてきて、当時は「全く気にしません」としか回答していなくて調べてもいなかったのですが、たぶんこのような間取りを気にしていたのですね^^;