一条工務店に対する「愚痴」の背景と個人的な考え

こんばんは。さすけです\(^o^)/

先日、

【愚痴注意】引き渡し済で一条工務店の展示場に行ったらもう客じゃなくなってた(´д`)

というやや過激なタイトルで、一条工務店の展示場で経験した「愚痴」を書かせていただきました。

今回は思うところあって、「愚痴の解説記事」という謎の記事をアップしてみることにしました。愚痴の解説って何だよ、というツッコミはなしで^^;

いただいたご批判

今回、色々な方から同じ経験をしたというお話しを多くいただきまいた。また、実際に現場に立つ営業さんからも、自分自身も同じようなことをしてしまったことがあるというお話しもいただく事ができました。

一方で、

  • 自分は一条工務店で営業をしているが、引き渡し済のお客様にそのような対応をしたことは一切ない。
  • 自分の営業さんは素晴らしい人であり、引き渡し前の施主の不安を煽る内容で不愉快だ。
  • クレームを言いたいならば、直接本人や展示場に伝えるべきでブログに書くことではない。

といった内容のご批判をいただきました。

 

当然のことながら、真面目にやっている営業さんや、ましてや引き渡し前の一条工務店で契約中、建築中の方々の不安を煽ることは私の本意ではありません。

そのような方々にご不快な思いをさせてしまっていたとするならば、本当に申し訳ありませんでした。

「愚痴」の解説記事を書く目的

愚痴に解説をつけるという、非常に間の抜けたことをしようと考えたのには2つ理由があります。

今回、上記の内容について3名の方からご批判をいただきました。率直な批判は常に歓迎しており、ご批判をいただけた方々に深く感謝しています。

通常、不快に感じても「不快だ」と伝えてくださる方は、極々少数です。そのため、より多くの方がご不快に感じたであろうと思っています。

今回、そのような方達に私が伝えたかったことをご理解いただければと思い、この記事を書かせていただこうと思ったのが1つめの理由です。

結果的に、その内容をご理解いただいた上でも、不快なものは不快であることに変わりはないかもしれません。それはそれで仕方ないことと思います。ただ、真意が伝わらないままに不快な思いだけさせたとするならば、それは申し訳ないと思った次第です。

そして、今回、この記事をアップしようと思ったもう一つの大きな理由は、私の批判に晒された営業さん個人にとっての不利益が生じることを懸念したためです。え?さんざん批判しておいて何言っているの?と思われるかも知れませんが^^;

私は、当該の営業さんが、通常の営業活動の一環としてしてしまった「ミス」に対する処分を社内的に受けるのだとしたら、それは仕方ないことと思っています。一般には今回の程度のことであれば、上司からちょっと怒られる程度と思っています。しかし、それが「ブロガーのさすけ」への対応であったことによって、処分の程度が重くなってしまうことはあってはならないことと思っています。何度も書きますが、私は「営業さん個人」を批判したいのではありません。

そもそも、私は展示場で「さすけです」とは名乗ってはいません。よって、「ブロガーであるさすけ」への対応であったことを理由として、処分が重くなるようなことがあったとするならば、予測も対処もできないことに対して責任を問うことになってしまい、それは責任の問い方として正しいものではないと考えます。なによりも、そのような行為が行われた他とするならば「私」を特別待遇し、「それ以外の引き渡し済のお客さん」を下に見る行為であり、その行為こそが今回の批判の対象と同じものとなってしまいます

そもそも、私の「愚痴」は一方的であり、批判の対象が個人であったとするならば、その個人に反論の機会を一切与えていませんそのような反論の機会を一切与えない個人攻撃は、個人のありようを批判するものとしては全くの無価値です。

では、なぜわざわざ「愚痴」等という書き方をしたのか、そして、そもそも何が批判したいのか?ということになります。

 

今回の記事の意図と背景

「愚痴」とした理由

今回あえて「愚痴」という体裁を取らせていただきました。

「愚痴」と書いたのは、私の真意をより伝わりやすくストレートに伝え、一方で私が元来持つ攻撃性を和らげオブラートに包む(包めているかは甚だ疑問ですが)ためにあえて「愚痴」とさせていただきました。

私はこれまでも、気が付いた事についてはできる限り率直に、批判してきました。

ケースによって、あえて「茶化すような批判」を行うこともありました。

なんだか批判ばかりしているように見えてしまいますが^^;そんなことはなくて、良いと思ったことは良いと書かせていただくことの方がずっと多いです。

いずれのケースにおいても共通して言える事は、私なりにではありますが問題の解決に最も効果が期待できる批判のあり方を手探りの中で考えてきていました(それが正しいかは全くの別問題です)。

そのような中で、今回のケースでは率直に批判を行えば、営業さん個人への攻撃色が強くなってしまうと考えました。今回のケースでも十分に個人に対する攻撃のように見えてしまった可能性はありますが、もしも技術的な批判と同様に批判をすれば逃げ道を全て塞ぐような批判になってしまうことは、自分自身が一番分かっています。それ故、あえて「愚痴」とさせていただきました。「愚痴」と言うのは、聞いて欲しいだけで、いちいち愚痴に対処する必要はないですから。。。

では、なぜあえて1人の営業さんの事例を挙げて「愚痴」を書いたのか?営業さん個人に対して注意をするか展示場にクレームを入れれば十分ではないか?と思われるのは当然と思います。

今回もそのようなご批判をいただきましたし、そう感じられた方も多かったと思います。

今回、私が批判したかったことが営業さん個人の態度であるとするならば、それは本人やその展示場に伝えればそれで十分です。しかし、私が批判したいことは先にも書いたように、「営業さん個人の態度」ではありません。個人的には行動の本心やその背景にあることは、その答え合わせ的な感覚で、私の好奇心として直接聞いてみたいとは思っても、謝って欲しいなどとは全く思っていません。そもそも謝るようなことでもないでしょう。。。

今回私が批判したかったこと

批判したいのは一条工務店の中に内在する「企業文化」です

今回の何が批判したかったか?というと、それは一条工務店の中に内在する概念としての「企業文化」です

そう言われても、批判される側もそれを読まされる側も、ポカーン、という状態だと思います^^;;

私だって人がそんなことを言っていたら何をいっちゃってんの??状態になります。。。

 

抽象的、概念的な話をより多くの方にわかりやすい形で説明するためには、どうしても具体化された事例が必要になります

 

そして、今回私が批判したい概念としての「企業文化」を具体化した一つの事例が、「営業さん」であり、その象徴が「福袋」であったに過ぎないのです

で、自分で書いてても思うんですが、こんなこと書かれても「何言ってんだこいつ」状態になってしまうと思うのです。。。。

ここで、「企業文化」という言い方がわかりにくければ、「漠然とある雰囲気」と言い換えても良いかと思いますが、それでもわかりにくいように思います。

 

誤った「文化」の存在は企業を衰退させる

安全対策でさえ周囲の雰囲気によって変化する

文化を批判したい、等と言われても意味が分かりません。

ここでは、一つの事例として自分自身が「とある建築現場で働く新人監督であること」と想像してみて下さい。

勤務するハウスメーカーでは、安全対策のために「ヘルメットの着用」が義務づけられています。しかし、その現場で働く先輩作業員たちはみんなヘルメットをかぶっていません。

そして自分がヘルメットをかぶって作業していたら、鼻で笑うようにして「この暑いのに馬鹿じゃないか、熱中症になっちゃうぞ」と言ってきます。それでも、会社のルールだから、と言っても、「この世界で30年仕事をしているけど、頭の上に何かが落ちてくる事故なんて一度も無かった」と言ってきます。

最初は、それでも会社のルールだし、そもそも自分の安全を守るためのものとして、ヘルメットを着用して現場に向かうでしょう。

ある日、同じハウスメーカーに勤務する別の監督が現場にきたとき、ヘルメットを脱いだ姿を見て、「なんだか汗でべっとりしていて汚いな~、俺はヘルメットなんてしていないよ。事故なんてないよ」と言ってきます。そして、そういったことを言う先輩が大多数である事に気が付きます。

それでも、自分のため、と思ってヘルメットをかぶっていましたが、ある日、ちょっと離れた駐車場の中に、ヘルメットを忘れてきてしまいまいた。

 

あなたならヘルメットを取りに戻りますか?

 

周りは誰もヘルメットをしていません。むしろ、ヘルメットをかぶっていることをちょっと小馬鹿にしたような雰囲気さえあります。。。何より、自分がヘルメットをかぶっていなくても注意する人は誰もいません。

おそらく多くの人は、「まあいいか」と思って、その日は現場に入ってしまうでしょう。

そして、それが徐々に慣れになってきて、ヘルメットをかぶらないことが当たり前になってしまうのではないでしょうか?

今回、あくまで想像の世界ですが、上記の建築現場で「ヘルメットなんて暑くてかっこわるい」という「雰囲気」こそが企業文化です。ここでは、安全を軽視する文化が醸成されてしまっている状態です。

どれほど意思の強い人でも、一つの文化の中に居続けるといずれ周囲の雰囲気、すなわちその文化の常識を受け入れ、自分もそれが常識だと考えてしまいます。

そして、そのヘルメットなんてかぶらなくても問題ない、という「誤った文化」を次に入ってきた新人に対して受け継いでいく担い手になってしまいます。

確かに、一人一人について言えば、ヘルメットをかぶっていれば死ぬことが無かったはずの事故に遭う可能性というのは100年に1回の程度かも知れません。しかし、企業にとってはそのような文化は脅威以外の何者でもありません

1人の監督にとっては毎日ヘルメットをかぶっていても防げるのは100年に1回の事故にすぎません。しかし、企業の中に1000人の従業員がいれば、1人にとって100年に1度の事故が年間10回起こることになるのです。

毎月のように全国のどこかで脳挫傷によって社員が1人ずつ減っていくのです。そのような企業は存続不可能です。

個別注意では問題は解決しない

この時、ヘルメットをかぶっていない1人の監督を見つけるたびに注意するというのも一つの方法です。しかし、残念ながら、1人を注意しても、周囲に「誤った文化」が存在する限り、いずれ周囲の同調圧力に負けて、またヘルメットをかぶらない日が来ます

ではどうすれば良いか?というと、そこにある「誤った文化」そのものを破壊し、再構築しなければその会社の建築現場が真に安全になることは無いと思うのです

逆に、周囲に「絶対にヘルメットをかぶらなくてはいけない」という雰囲気がある状態、そのような安全文化を持つ企業で過ごしていると、人は誰かが見ていなくてもヘルメットをかぶるようになります

先ほどの駐車場にヘルメットを忘れたときも、ヘルメットを取りに戻るようになるのです。

 

「文化」は時に甚大な問題を引き起こす

なんだか「文化」ということでこじつけているように感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

「誤った文化」が醸成(培われること)されたことで、甚大な被害を及ぼした顕著な例として、東日本大震災における原発事故が挙げられます。

ご記憶の通り、311が発生する以前、日本の原子力発電所は世界一安全であると言われていました。

確かに、1960年代、日本に原子力発電所が建設された当時は唯一の被爆国である事から、原子力発電所の安全基準は世界的にも高い水準が設けられていたのだろうと思います。

また、住民を説得するために「絶対安全」と言いつつも、そこに関与する技術者や作業員達は、常に「本当に安全か?」という問いを自分たち自身に対して何千回、何万回も問うてきたと思います。そして、そのような自己に対する安全への問いが、「絶対に安全」と言う自信と根拠にもなっていたはずです。

しかし、時を経るに従って、住民に「絶対安全」と繰り返すうちに、自分たち自身もそのことを信じてしまい「原発の安全性を疑うこと」を愚かなことと見なす雰囲気、すなわち安全性を軽視する文化が醸成されてきてしまったのだろうと思います。

新入社員のうちは、本当に安全なのか?ということを良い意味で疑いながら考えてきた人々も、周囲の安全性を疑うことを「愚かなこと」と捉える雰囲気に流され、何時しか自分自身も自分たちの作るものの安全性を疑うことがなくなっていきます。そしてできあがったのが、「原発の安全神話」です。

「安全を疑わない文化」という誤った文化が醸成された結果、311の後に起こった原子力発電所の事故によって、多くの方々の住む場所を奪うという悲惨の事故を引き起こしたのではないでしょうか?

このように周囲の雰囲気としての「文化」は時に、企業だけではなく、多くの人々の生活にさえ影響を及ぼしてしまうことがあるのです。

 

「文化」の問題は内部で気づくことは難しい

この「文化」というものは、その文化の中で生活する人が、その問題に気が付くことが非常に難しいと言う特徴を持っています。

周囲のほとんどの人間がヘルメットをかぶらないことを「当然のことと」としている中で、それでもヘルメットをかぶるべきだ、と考えることは難しいことです。

確かに、どこかで違和感を感じているケースはあるかもしれませんが、それでも周囲は誰一人ヘルメットをかぶっておらず、そして誰もがヘルメットをかぶっていないことを当然としているなかでは、自分が感じた違和感の方をおかしいものと感じ、いつしか違和感もなくなってしまいます。

それがおかしい、間違えていると気がつけるのは、外の世界に出るか、または、外の世界から指摘を受けた場合のみです

ある文化の中に身を置く立場から、自己の文化の特徴を知ることは非常に難しく、それが良い文化であろうと、悪い文化であろうと、その善悪はその文化の中に身を置いている立場からは気がつけないことが多いのです。

 

文化の再構築は社長でも難しい

この「文化」にはもう一つ特徴があります。

それは、一度築かれた文化の有り様を変えることが非常に難しいと言うことです

「ルール」というものは、ある程度臨機応変に変更して社会の流れに合わせていくことができます。しかし、一度築かれた文化は、容易には変えることができません。

これは人間の社会性と対を成すもので、人間が進化の過程で獲得してきた人としての機能であろうと思っています。いちいちその社会の中における「当たり前」に疑問をぶつけてくる、個人がいたらその個人は疎まれ、結果的にその文化から排除されてしまいます。

それ故に人は、「周囲にとっての当たり前」によく言えば溶け込める、悪い言い方をすれば流されてしまうという特徴を持っています。これは意思の強さや、頭の良さなどとも無関係です。人は「当たり前」なことに疑問を持たないようにできているのです

そして、その文化異を唱える個人があらわれた時、その個人はその文化における異端として徹底して排除されます。

文化の中で最も大きな文化の一つである「国の文化」などでは、その再構築が行われたのは、歴史上「戦争に負けた場合」のみであったと思います。

江戸時代から明治への移行は徳川幕府が負けたことで、明治という全く新しい文化が生まれました。そして第二次世界大戦に負けたことで、現在私達の知る日本文化へと転換してきたのです。

文化の再構築というのは、何十万人、時には何百万人もの人の死の上でしか行えない程に、覆しようのない、強固なものと思っています。

企業文化の再構築であれば、人の死がなくとも、その企業が危機的な状況に陥った場合などに行われます。しかし、多くの場合、そのような状況から復活を果たすことは容易なことではありません。過去においてはその転換に成功(敗戦という強制的な力もありましたが)してきた財閥系の企業があります。

一方で、内部の企業文化故に、現在苦しんでいるテレビ局や新聞社、はたまたシャープなどの多くの企業が今まさに内部にある企業文化の転換に苦しんでいます。

文化というのはそれほどに強固なものです。故に、社長が訓示で文化の再構築を叫んだとしても、その程度では企業の中に一度築かれてしまった文化は変えることができません。

社長が直接社員を注意すれば、社員1人の行動は変えることができるかも知れません。しかし、一度築かれた企業文化は、社長がどれほど注意しても短期的には容易に変えることができない程度に強固なものと思います。

そして何よりも、住宅展示場の店長も、エリアマネージャーも、トップである社長であっても、その企業文化の一構成員であり、どれほど優秀な人であっても、自己の所属する社会における文化のおかしさ、に気が付くことさえ難しいと思うのです

(唯一、創業社長に関してはその社長自身が文化の体現者である事が多く、その一声で企業文化が大転換するケースがあります。)

一条工務店の対応に感じた企業文化

「引き渡し済の客は客じゃない」という文化

今回、私が「愚痴」として批判したかったのは、一条工務店の中、もしかするとそれは一条工務店に限らずハウスメーカーというものに潜在的にある、1つの文化です。

すなわち、顧客を「契約できるかできないか」のみで見るという文化です。

顧客を「契約できるかできないか」で判断すると言うことは、企業が生産性を向上させることを目的とするならば、それ自体が「悪」という訳ではありません。

将来にわたって、住宅建築数が増加していくということが明らかな見通し、すなわち高度経済成長期のような状況であれば、契約済みの客などを相手にするよりも、新規顧客獲得に向けて来場者を選別し対応した方が合理的、かつ結果のパフォーマンスも良くなるでしょう。

しかし、今後の日本社会を考えたとき、少子高齢化とそれによる人口減少を考えた場合、旧態依然とした高度経済成長期的販売方式は通用しなくなってくるのは自明です。

さらには、この20年でネット社会が台頭し、それまでは「口コミ」というものの拡散速度と範囲は限定されたものに過ぎなかったのが、その速度と、範囲を著しく拡大してきました。

そのような社会においては、旧来型の来場者選別方式を採用した場合、それは結果的に口コミや企業イメージに大きなダメージを与えてしまう可能性が高いと思うのです。

一方で、これまでの何十年もかけてハウスメーカーという集団の中には、「引き渡し済の客は客じゃない」という無言の価値観、すなわち文化が形成されてきていることは、これは間違いのない事実だと思っています

住宅というものは通常の個人にとって、人生で1度しか購入せず、購入後は多少のメンテナンス等は必要になるものの、基本的には2度と顧客にならないという特殊な産業構造にあります。

しかし、今後の人口減少と建築棟数の減少の中では、住宅産業は海外展開をするか、顧客の長期囲い込みと継続的な付加価値創出による企業利益の確保以外に、生き残る道がなくなっていくだろうと思っています。

すなわち、顧客との継続的関係構築が結果的に企業の利益に資するような形に変化していかなければ、社会そのものの変化に対応できないのです。

内部の文化とその文化における価値観を優先した結果、衰退した企業や産業には枚挙にいとまがありません。今まさに衰退している新聞社、テレビ局もその一つです。

24年前、インターネットが一般に開放された段階で、それが情報へのアクセスのあり方を大きく変えることは明らかでした。しかし、新聞社は自分たちの作りだす情報の価値はネット社会においても価値を失うことはないと主張していました。良く覚えているのは、「新聞には一覧性がある」、「編集された情報には価値がある」というものでした。確かに、それは一面的には事実です。しかし、人々の情報へのアクセス方法は、大きく変化し、それまでは世論の形成主体であった新聞社が、ネットで形成された世論によって批判されるという逆転現象が起こっています。旧来型メディアが、ここから新たな価値を創出し、大転換を果たせるか、それともこのまま衰退していってしまい、ネット社会における情報の一つとまでなってしまうかは、今後の取り組み次第だとは思います。しかし、今からではそれは非常に難しいものであることは間違いありません。

住宅産業はまだそこまでの状態には至っていません。しかし、今転換を果たせなければ20年後には衰退の一途を辿ると思っています。

 

展示場にクレームを入れずブログに書いた理由

今回、批判の中で、なぜ営業さん個人に対してクレームを入れずに、ブログで書いたのか?というものがありました。

上記で、書かせていただいた通り、私が批判したい対象は、営業さん個人の行動ではありません。

今回の件については、そのこと1つを取り出したときには、それ自体はネット上でことさらに批判されるような話では全くありません。

個人として、展示場にクレームを入れるか、または、私がいつもブログでクレームを言う場合はお客様相談室に相談をすることを推奨しているように、一条工務店のお客様相談室に相談をすれば、その営業さん個人に対して指導が行われたと思います。

私はこれまでの様々な対応を通じて、一条工務店のお客様相談室を高く信頼しています。

今回のような些細な話であっても、それをしっかりと伝えれば、何らかの指導が行われ、対応が行われただろうと思っています。

そして、きちんとした形で謝罪があり、今後そのようなことがないよう務めることも約束してくれたと思います。

しかし、今回はそれらの対応は無意味と考えました。無意味というと言い過ぎかも知れませんが、あまり意味があることと思えませんでした。

どれほど信頼しているお客様相談室であっても、全員が一条工務店という企業文化の中で生活している人々です。

そして、私の考えに同意してくれたとしても、どこかでこう考えるはずです。

 

でも、営業は契約を取らなければ仕事にならないし、仕方ない面もあるよね

 

という考えは捨てきれないと思うのです。これは、一条工務店という文化の中で生活している以上、避けることができないことです。

一条工務店という閉じられた文化の中では、それが当たり前であり、私がどれほど何を言っても、その「当たり前」は覆しようがないのです。

しかし、私個人、すなわち、そのような文化とは異なる文化の中にいる顧客側の立場から見たときには、一条工務店をはじめとしたハウスメーカーの中にある「契約済みの客を軽視する文化」が、最終的に自己の身を滅ぼすであろうことは火を見るよりも明らかに見えるのです

明らかに、間違えた行動をしており、その行動を継続することが結果的に一条工務店の長期的継続性を損なうものであった場合、それは結果的に私達建築済の顧客の、さらにはこれから新築を予定している方達(将来の引き渡し済客)にとっての不利益に繋がります。

確かに、営業さん個人に対して注意をしたり、その展示場にクレームを入れることで、その個人の対応は変えることができるかも知れません。

しかし、周囲には隠然と「引き渡し済客は適当にあしらっておけば良い」という考えが蔓延した中で、若い営業さん1人が引き渡し済客一人に丁寧な対応を行うようになったとしたらどうなるでしょうか?おそらくは、その営業さんは「そんなことをやっているから契約が取れないんだ!もうちょっと効率的に仕事をしろ!」と怒られるような結果さえ、容易に想像が付きます。

私に注意をされた営業さんは、先のヘルメットの事例と同じように、注意をされた直後は対応を改めるかもしれません。しかし、しばらくすればそのような周囲の圧力に流され、結果的には引き渡し済客を軽視した対応に戻っていくのではないでしょうか?

また、もしかするとそこで「引き渡し済客に対してもしっかりとした対応をしたい」と考えるようになってしまったら、周囲とは異なった考えを閉じた文化の中で貫こうとすれば、当然疎まれます。結果的に、「引き渡し済客にもしっかりと対応をしたい」という理想を実現するためには、その閉じた文化から他の文化に移動する、すんわち一条工務店をやめてそれを実現できるハウスメーカーに転職をせざるを得なくなります。

そうして、考えを改めた「素晴らしい営業さん」は一条工務店から去って行きます。

よって、直接のクレームは誰もハッピーにならない結果を生み出すとしか思えませんでした。

そのようなとき、私にはブログがありました。

私のブログは私自身も不思議なのですが、多くの方からアクセスをいただけています。少ない日でも1日に5千人、多い日では1万人以上の方にブログにアクセスをいただけています。そして、その大半の方がこれから家を建てようと考えている方や、はたまた、一条工務店と契約済みの方です。

もしも、そういった多くの方達が「引き渡し済の客を大切にしない一条工務店は嫌だな」と考えてくれたとしたならば、隠然と存在する文化を変えることができるほどに、強力な圧力になると考えました。

今回、「自分がそのようなことをしたことがない」、「自分たちの営業さんは引き渡し後もしっかりと対応してくれる素晴らしい営業さんだ」という批判をいただきました。これは私の傲慢であるかも知れませんが、私個人は、そのような方達が本当にその考えを貫けるような基盤を築く一助となればと思い「愚痴」を書かせていただいたつもりでいるのです。

おわりに:それはテロリズム的だ、という自己批判

今回、そのような批判はありませんでしたが、自分自身で自己を批判するとするならば、私のやっていることはテロリズム、と言われても仕方ないという側面があると思っています。

外的な攻撃によって、その根底にある考えを変えようとする行為は、テロリズムの思想そのものです。

私自身は、その攻撃が言葉によるものである限りは、それはテロリズムであるとは思っていません。しかし、多数の自社顧客を味方につけて(味方になってくれるかは分かりませんが)、反論の機会を一切与えない形で意見を言う行為は、企業にとっては脅威となる行為と受け取られる可能は重々承知しています。よって、一条工務店に、私の行為がテロリズムと見なされても、にはそれに反論することはできません。

でも、そこはこれまでの一条工務店の対応を見てきて、分かってくれるかな?と安易に考えています^^

そして、批判された営業さんも、この程度の批判?であれば、今後頑張ればいいんじゃない?などと簡単に考えています。

そして、何よりも、私は私のブログを読んでくださっている方を高く信頼しています。

家を建てるということはお金のかかることです。そして、そのお金を払うためには、社会の中でしっかりとした経済基盤を有し、また、仕事を通じて社会を接点を持っている方以外にはできないことです。すなわち、高い社会性と常識を有した方たちばかりなのです。。。。

願わくば、私が書いている内容が間違えたことではないことを望んではいますが、もしも私が間違えていれば私の書いた事など完全に無視していただけるとも思っているのです。そして、そうでえあれば、いずれは私のブログが社会から淘汰されるだけだろうと思うのです。

そして、最大の自己批判は、「なんでオマエがそんなこと書いているの?」という批判と思います^^;まあ、趣味と言うことでご容赦を。。。

 

ということで、今後も気になったら好き勝手かきますよ、という宣言で終わらせていただきます\(^o^)/